古文単語、古典文法、漢文、文学史、漢字…。とめどなく手を広げて、というよりも、自分の授業実践のすべてをどうにかして言語化して、参考書のように参照できるようにすることがひとつの目標なので、むしろ、まだまだ広がっていくわけですが、授業が短歌と詩に入る関係で、近代詩にいたる文学史の流れもやってみたいと思っています。
うちの学校では、東洋大学の現代学生百人一首に参加しておりまして、毎年のように入選者を出し続けています。
そうなると、授業の前に短歌とか詩とかの解説をして、そのうえで作らせたくなってしまうわけです。
そんなこともあって、短歌の解説をしていきたいわけですが、その前に日本の変遷について、話をしておきたいと思います。当然、これは文学史のお話。詩歌が日本の中でどのように変遷してきたか、解説しておきたいと思います。
歌と詩=和歌と漢詩
歌と詩は明確に違うものです。
「詩」というのは、近代以前は、「漢詩」を指す言葉です。古文単語でもやりますが、「詩」「文」「学」という単語はそれぞれ「漢詩」「漢文」「漢学」を指す言葉ですね。よけいなことを書くなら、そこに異を唱えるのが、国学者。本居宣長です。
彼の思想は、「漢学」「中国」嫌い。というその一言。「をこなり」って山ほどつけるんですが、要は「ばかだ」ってことです。
「漢文学」は彼からすれば、「からぶみまねび」です。全部訓読み。だから、彼は和語が好きなわけで、彼の文章は、中古の文章をまねた擬古文、すなわち和語を用いて書かれているわけです。文法的な誤りもあったりして。
彼の立場は、日本人は日本の文章を読むべきで、日本の文章を書くべきで、日本の学問を学ぶべきだ、というもの。だからこそ、「漢学」ではなく「国学」ですが、本当の彼の立場は、「学」はなにもなくても日本の学問、漢学こそ「漢学」と名乗れ!という感じなんですが、実際には、彼が「国学者」になるんですから皮肉ですよね。
戻ります。というわけで、「詩」は明治になるまで「漢詩」。逆に言えば、日本のものは「歌=うた」となるわけで、それはもちろん、和歌=短歌のことになるわけです。
和歌の特徴と性質~中古=平安時代
和歌の話をするとなると、万葉集、古今集までさかのぼる必要があります。和歌は本来、短歌とは言えず、長歌や旋頭歌とか一般に呼ばれるものもありますので、イコールではありませんが、最終的に一般的なものは短歌になっていきますので、間違っているわけでもありません。
いわゆる5・7・5・7・7の形式となります。長歌は「5・7」と「5・7」の組み合わせ、繰り返しの中で、進んでいき、最後に7をつける感じ。つなげてみれば、「5・7」「5・7」「7」ですから、繰り返しがなければ短歌と同じです。
いずれにせよ、この時代に、短歌の形式が固まり主流になっていくわけです。
歌そのものに形式以上のルールはほとんどなく、徐々に技法=修辞、「枕詞」「掛詞」「序詞」「縁語」などのある種のパターンが決まっていきます。
一番大事なのは、この「歌」が、
気持ちを相手に伝えるために使われた
ということ。
これが何より、短歌を短歌たらしめているすべてだと私は思います。
したがって、短歌は「情」=気持ちを詠む。
- 短歌とは、自分の気持ちを伝える必要がある。
- しかも、それはラブレターの確率が高い。
- 工夫しないと、いいなと思ってもらえない。
- そのために、技巧を凝らすようになる。
- それは支えるのは高い知性である。
これが短歌の特徴です。おそらくですが、短歌とは文字が読める知性ある貴族の世界で成熟したものであって、庶民のレベルでは非常にあやしい。あったとしても、万葉集のような、よくいえば、庶民的で素朴で力強い、悪くいえば、何の工夫もない、日常語で誰にでもわかる、そんなものであったはずです。酒のんだときに、おもしろおかしくふざけてよむ、みたいなものだと想像できます。
だって、あの和歌が何を言いたいかなんて、大学受験をしようとする人たちがわからん、と思うわけですから、当時の庶民がそれを理解するなんてありえないと私は思います。
比喩がわかるためには、教養が必要。ラブレターでも、ばかな人なら「好きっていってくれないとわからない!」みたいなことになるんですね。
つまり、ああいう短歌を喜ぶためには、ある程度の知性のある共同体の中で、知性を競っているような状況、「わたしはわかるよ、こめた意味」みたいな感じ。
たとえば、源氏物語の中で、近江の君というのが作った歌なんていうのは、「無教養な人」ということをあらわすためにめちゃくちゃなものにされてます。受け取った人もわからなければ、返歌を作れと命じられた人もわからない。(意味がわからないから、返歌のつくりようがないし、だから人に投げるんですね)
草若み常陸の海のいかが崎いかであひ見む田子の浦波
何がめちゃくちゃかといえば、草は海にかけようがない。
常陸は茨城、いかが崎は近江(滋賀)、田子の浦は駿河=静岡だから、もう何もない。
いかであひ見む
だけがメッセージなんでしょうね。逆にいえば、こんな歌がギャグになるような教養を、貴族の人は持っていて、貴族でもこんな歌を書くやつは笑いものにされていた、ということです。現代に生きてよかったですか?
沙石集(中世=鎌倉中期)では、
君をのみ恋ひ暮らしつる手すさみに外面の小田に根芹をぞ摘む
という歌に対して、返歌は「言葉ごとにあひしらひて申すことに候」といって、こんな歌を返します。
我が虱鮒明かし亀足もむ丁背戸の畑に御形をぞ捻る
…わかります?
最初からひとつずつ、言葉の対応を返しているんです。
君→我が、のみ→しらみ、みたいな感じです。「暮らし」は「暗し」にして「明かし」ですね。
これが逆になるのも、「普通」をしっているから。
貴族の時代では、みんなが人よりすごいものを作ってどんどん短歌が技巧的になっていくわけですね。
連歌の時代へ~中世
さて、このように短歌が技巧的になっていく時代になったとき、大変なことがおこりました。
そうです。貴族の時代が終わってしまったのです。
貴族の時代が終わるのは構わない。でも、文学にとっての問題は、「知性」が失われたこと。
貴族という文化系女子の時代から、武士という体育会系男子の時代へとうつります。そして庶民という字の読めない方が主役になる。
文学にとっては暗黒の時代です。
字が読めないから、語り聞かせになる。平家物語とかですね。
字が読めないから、演劇になる。能と狂言ですね。
まあ、読み聞かせも演劇も好きですけど、文学は読まないとなると、ちょっと…
仏教だって、小乗仏教から大乗仏教へ、なんていってますけど、大胆に書けば、
頭のいい人たちが、ありがたいお経の意味を理解して唱える、あるいは教えてもらう講話を聞くという、学問としての仏教が、ばかな人たちには一切うけいれられない状況になったときに、
「南無妙法蓮華経ととなえれば極楽浄土にいけるんですよ」という甘いささやきにしなければ、仏教そのものがうけいれられない、というのが実態だと思います。踊り念仏なんてそういうことでしょ、としか思えない。
さあ、こんな時代、和歌はわかりにくい。
そもそもこりすぎているわけで、庶民に理解できるわけがない。
新古今和歌集に関わるのは藤原定家ですが、すでに平安末期ともなると、眼前に広がるのは、武士の時代、武士の風景…。新古今が、「本歌取り」とか「幽玄」とか「体言止めで余韻」だとか言い出すのは、要は、目の前の風景を見たくない、目の前の武士ではなく、昔の貴族の風景をそこに重ねたい…という切実な思いのように感じます。
そういう時代の中で、短歌そのものは、混迷をきわめていくというか、どんどん目の前から逃げて、古き良き時代にひきこもろうとするわけですね。
さて、じゃあ、現実の、庶民に根ざす短歌はどう形を変えるのか?
それは連歌という、ゲームとして、生き残ろうとしてきます。
簡単に言えば、
一人が発句=5・7・5を詠む。
次の人が7・7と詠んでひとつの和歌にする。
次の人は、また5・7・5と詠んで、前の句とつなげてまたひとつの歌にする…
で、大体100句つなげて、全体としても作品にする。
そんな遊びなわけですね。これならなんとか庶民もついていける。もちろん、本当の意味で庶民が遊んだかは別ですが…。
最後は「挙句」。挙げ句の果て、の挙げ句はこれですね。
連歌は筑波の道なんていわれますが、古事記の中で、筑波山で男女がかけあうという、そんなことから持ってきているわけですね。だけど、ルーツはそこにあっても、中世に生まれたといってもよいでしょう。
というわけで、遊びであるとすると、ルールがほしい。
だって、ルールなく、別名テーマなく、やっていたら、めちゃくちゃになりますよね?
「今日は秋でいこうぜ」みたいな、しばりがほしくなるわけです。そうすると、うまくまとまる…
そして、あまり「気持ち」を詠まない。気持ちを詠まれてしまうと、うれしかったり、かなしかったり、全体としての統一がなくなります。
だから、「景」、つまり「景色」を詠むわけですね。
俳句が誕生していく~近世
さて、これが俳諧連歌となっていくのが、近世です。
ここに一人の革命児が現れます。
その名は松尾芭蕉。
このお方は、俳諧連歌を開く旅にでていく。そして、各地で俳諧連歌をすることによって、各地の有力者にもてなされるわけです。
なんで、金もないのに、旅が続けられるのか?きっと忍者だ!
ではなく、東京(江戸)の超有名シンガーが、各地で参加型のライブを開くわけですから、そこに参加できる有力者はもてなすに決まってます。
そして、その発句を詠むのが芭蕉。そりゃそうです。主役ですから。あの芭蕉さんと俳諧連歌ができるなんて!と思いながら、最初に芭蕉に詠ませないなんてことはありえません。
ところが、ライブでアドリブで、このお方は名曲を作る。もちろん、各地の景物を読み込みながら…
五月雨を集めてはやし最上川
なんて感じですね。
ところが、この名曲。使い捨てです。そりゃそうです。次のライブ会場は、最上川はないわけですから。常にこの名曲は一回使われてもう二度と使われない…
その時に彼は考えるわけですね。
このライブから、自分の曲=発句を取り出して、ストーリーをつけて出版して販売すればいい(儲かる)…
これが「おくの細道」。
ライブで儲けて、さらにベスト盤リリースして儲けるという戦略です。
印刷術が発達した時代ならではの進化です。
これが俳句の発端。
だから、俳句には季語がある。ゲームだからですね。
こうして、明治時代には俳句としてそもそも連歌とは関係ない、独立したものができあがっていくわけです。
そして明治がやってきた!
明治になると、そもそも西洋詩を目にすることになります。ここで、和歌でもない、漢詩でもない、第三の形態、新体詩が誕生するわけですが、これは完全に西洋詩のコピー。
これが本質的な詩になるまでには、紆余曲折を経るのですが、この話は次回にしたいと思います。
まずは、五七調を中心にした、とりあえず、短歌でも俳句でもないものが誕生しますが、冗長であるがゆえに、五七調のリズム以外は、ただの散文と変わらないレベルになります。
もうひとつの路線は、翻訳ですね。
西洋で見た物を輸入するなら、まずは翻訳にかぎるわけで、それが翻訳詩の路線です。
こういう形態から始まり、日本らしい詩、そして短歌でも俳句でもない詩が誕生するには一定程度の時間が必要となるわけです。
短歌の再生へ
さて、ここで気づいたと思いますが、短歌は滅んでいるわけではないのですが、表舞台というか、人気は他のものにとってかわられていたわけです。俳句はむしろ、近代に入って完成するわけで、近代短歌は再生、というのが正しい言い方だと思います。
近代に生まれた小説でもなく、近代詩でもなく、俳句でもなく、そういう関わりの中で、新たな立ち位置を短歌は見つける必要があるわけです。新しいものばかりの中で、短歌はバリバリの古典だったからです。ここから脱却しないかぎり、明治の自由の風の中で埋もれていったはずなのです。
そのキーワードは「連作」。
つまり一首独立の作品でありながら、いくつかの歌を続けて詠む中で、小説的な、物語的な世界観を作り上げるわけです。
ところが、現代の国語の教科書は、連作としての短歌をとりあげない。
これは大きな問題のような気がします。
というわけで、近代短歌の解説へと続きます。