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山月記5 李徴は虎になる理由なんてあるのか…「月にむかって吠える」教科書定番教材シリーズ

山月記シリーズも一応、今回が最終回。

ここまで、李徴が虎になった理由について考えてもらいながら、それを全部順番につぶしていく、という卑怯きわまりない手法を使ってすすめてまいりました。

というわけで、今回のまとめは理由がないと考えてみることで、何が見えてくるのか、です。

本文はこちら。

中島敦 山月記

 虎になる理由は「わからない」

虎になる理由なんてないんじゃないか‥

まずは、今までと同じように本文を探してみましょう。

少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。そうしておそれた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々にはわからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分はぐに死をおもうた。しかし、その時、眼の前を一匹のうさぎが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血にまみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心がかえって来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語もあやつれれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書けいしょの章句をそらんずることも出来る。その人間の心で、虎としてのおのれ残虐ざんぎゃくおこないのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、いきどおろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少してば、おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかりうもれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿のいしずえが次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人ともと認めることなく、君を裂きくろうて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何かほかのものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、かなしく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。

いきなり、長い引用をしてしまいました。必要なところだけきりたかったのですが、李徴がどーっと話している流れを考えると、切るに切れなくてとりあえず、載せてしまいました。

これが、李徴のセリフの出発点。

最初から言っています。

しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々にはわからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

もちろん、このセリフは虎になった直後を回想している体で書かれているわけですから、「現在」とは違うという突っ込みもできなくはないですが、それでも、もし、今虎となった理由が自覚できているなら、こういうどーっとひたすらしゃべる的な展開にはならないと思います。

やっぱり、「わからない」「納得いかない」「誰にもわからない」という、その気持ちがこのセリフの流れを生むんでしょうから、やっぱり、今も「わからない」というのは間違いないと思います。

じゃあ、この物語って、どういう構成?

さて、ではここからどう展開するんでしょう?

ここを1として、李徴のセリフを追っていきましょう。

  1. 「わからない」「誰にもわからない」
  2. 詩を書き残したい=詩の伝録→今の気持ちの詩
  3. わからぬ→ないこともない=尊大な羞恥心
  4. 妻子のことを頼む→自嘲

実はこの順番だったんですね。

この順番がもし、彼にとって、重要な順番であるとしたなら、(それは「妻子をかえりみなかった」という理由に当たるかもしれませんね。)こういう風に考えることができます。

  1. まず、自分が虎になったことが納得がいかない。その思いを伝える。
  2. 重要なことは、詩を残すこと。そのことに気が付き、自分の覚えていた詩を託す。
  3. 目的が達成されたところで、今までの自分の反省がはじまる。自分のふるまいを反省する。
  4. そして、最後に妻子のことをお願いする。
  5. しいていうなら、自嘲。

こうやって考えてみると、最後に「妻子のことを頼む」ということも、決して軽いわけではなく、最後に重要なことを頼みたい、というような心理としてもとらえられなくはないですよね。

そして、もうひとつ大事なこと。

これが、山月記のすべてだということです。

もし、演劇「山月記」を脚色なしに作るとするならば、セットはくさむら。

そこにいるのは、袁傪ご一行。

そして、そのくさむらの中にいる李徴がひたすら、この間、しゃべるというとんでもないものができあがります。

これが山月記という物語の構成です。

山月記のタイトルと「月」

さて、もうひとつ考えるべきものをあげておきましょう。

それはタイトル。

原作「人虎伝」が「山月記」になるわけです。

というわけで、月にまつわる部分を最初から抜き出します。

袁傪は、しかし、供廻ともまわりの多勢なのを恃み、駅吏の言葉をしりぞけて、出発した。残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎もうこくさむらの中から躍り出た。

さあ、これが最初。

二人の再会のシーンには月が描かれています。

袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。

   偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
   今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
   我為異物蓬茅下 君已乗※(「車+召」、第3水準1-92-44)気勢豪
   此夕渓山対明月 不成長嘯但成※(「口+皐」の「白」に代えて「自」、第4水準2-4-33)

 時に、残月、光ひややかに、白露は地にしげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖はっこうを嘆じた。李徴の声は再び続ける。

次はここで2か所です。

最初は詩の中です。気が付いていますか?

まさに「山月記」です。

このゆうべ、渓山明月に対して、長嘯を成さずしてただ哮を成すのみ

です。

もう一か所は別れを告げる直前になります。最初と同じ「残月」。

と成り果てた今、己はようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸をかれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎ひごとに虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己はたまらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂のいわに上り、空谷くうこくに向ってえる。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処あそこで月に向ってえた。誰かにこの苦しみが分ってもらえないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、ただおそれ、ひれ伏すばかり。山もも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、たけっているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮のれたのは、夜露のためばかりではない。

そして、ここ。

現在の時制を中心に「残月」からの問いかけをしていくと、授業によっては、ここをとばす、なんてことが起こりかねませんが、ここが重要だと私は思います。

さっきの漢詩に対応するのが、ここになります。

詩人になれない苦しみを抱えると、彼は山の頂の巌にのぼり、空谷に向かって吠えるんです。

この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。」と彼は言っています。

「己は昨夕も、彼処あそこで月に向ってえた。誰かにこの苦しみが分ってもらえないかと。」

月が出てきました。漢詩の解説ともいえる部分ですね。

かれは、月にわかってほしいとでもいうように、月に向かって吠えるんです。

「しかし、獣どもは己の声を聞いて、ただおそれ、ひれ伏すばかり。山もも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、たけっているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。

でも、月もふくめて、誰も彼のこころを理解してはくれません。

彼が人間だったころも、虎となり果てた今も、彼の心を理解してくれるものはいない。

孤独。

彼が抱えている、あるいは抱え続けている孤独。それをわかってほしくて吠える。

だから、彼は月に吠えるんですね。

でも、そのことが自分の孤独をよりはっきりさせていく。

…いえ。

誰も理解してくれない、というのは正しくありません。一人、いるはずです。この彼の苦しみを理解しているであろう人物が。

彼が今、とうとうと語っている相手、袁傪です。これがこの物語の構造でした。

 一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地をながめた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

 そして、ラストシーン。月が消えていく‥という象徴的なシーンで終わります。

この物語と月の役割

こう考えていくと、この物語の大事な構成が見えてきます。

李徴には、自分が虎になった理由はわからない。正確にいうなら、理由はあるのかもしれないが、彼には分らないし、納得がいかない。

そんなことを彼は虎になってから、ずっと、ぐるぐるぐるぐると考え続けていたはずです。

その思いを誰かに伝えたい。他人とその思いを語ることで、孤独をいやすことができるはずなのです。

でも、誰にも語れない。だから、空谷、月にむかってほえるわけですが、木も山も月も、彼の思いを受け止めない。

彼は孤独を深めている。

そんな時、奇跡のように、かつての友、袁傪に出会うわけです。

彼は、李徴の思いを受け止める。李徴も、抱えていた思いのたけを包み隠さず述べる。

彼が抱えている納得いかない思いも、

虎になるにいたる理由も、

それを考え続けていたことも、

人間でいる間に残しておきたい詩のことも、

残された家族のことも。

ひたすら、彼は語り続ける。

さながら、この過程は、彼が抱えていた孤独が浄化されていく過程のようにも私には思えます。

 

最後に月の話です。

月が消える、ということが、人間性がなくなることのように書かれることも多くありますが、時間経過以外で意味を持たせるとするなら、

彼が、彼の思いをぶつける対象が消えていく、というむしろ、相手としてみた方がいいのではないか、と私は思います。

極端なことを言えば、彼が彼の中で抱えている思いが消えていくことが重要であり、袁傪である必要さえないのかもしれません。もちろん、袁傪以外にそんな人物は存在しないんですけどね。

まさに月が袁傪、あるいは袁傪に思いを語るチャンス、というようにとらえることが大事なのではないかと。

もちろん、こういう象徴的な表現は、どう読むこともできるし、基本的には、虎が山の頂上の岩にのり、月に向かって吠えるイメージでしかないわけですが、そこに私たちはさまざまな意味を加えます。

月を李徴の孤独そのもの、思いそのものとみることもできるでしょう。李徴の思いは、消えていく、浄化されていく、なんていうイメージも悪くない。残月なんていう表現も、思いが残っている感じと合わなくもないですし。

 

というわけで山月記でした。虎になった理由はわかりません。わからないから、やっぱり「臆病な自尊心だよ」という読みが間違っていることもないし、そういう風に考えることがいけないわけでもありません。

ただ、やっぱり重要なことは、今日の部分。李徴が抱えていた「理解されたいのに、誰にも理解されない」という思いは、読み取ってあげないといけないんじゃないかな、と思うんですね。

 

というわけで、山月記でした。