国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

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山月記3 李徴はなぜ虎になるのか?「妻子をかえりみない李徴」 教科書定番教材シリーズ

山月記の解説シリーズ第3回目となりました。

1回目では、李徴が虎になる理由を本文から拾いました。 今日は、李徴が虎になる3つの理由の二つ目「家族を省みない」「人間性の欠如」について、考えます。

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2回目ではそのひとつ、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を考えてみました。
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 検討した結果、どうも、単体としては虎になる理由とはいえそうにない…というのが結論(私の意見ですよ)ということになりそうです。

というわけで3回目は、理由その2「妻子をかえりみない李徴」について検討してみたいと思います。

中島敦 山月記

 

 賛成派の意見:李徴はどのように妻子をかえりみなかったのか?

さあ、いつものように、まずは本文の検証からはじめましょう。

 本当は、ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、おのれの乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身をおとすのだ。

ラストシーンです。最後の最後まで自分を優先してしまう。自分の詩のことなんかより、もっと大切な家族があるはずなのに、それでもなお、家族を後回しにしてしまう。これが人間性の欠如なのだと考えるわけです。

こんなところもあります。前回ですね。

おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

前回のものだけでは、だめだとしても、こうして「妻子を傷つける」ことになるわけですから、これは十分虎に値するのではないか、と。

こんなところはいかがでしょうか。

袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声にしたがって書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は感嘆しながらも漠然ばくぜんと次のように感じていた。成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。

直接は書かれていませんが、この足りないものこそ、「人間味」なのではないか、という説。(もちろん、本当に足りないものがそうなのかはわかりませんが、妻子を傷つけたことが虎だとするなら、ここはそう読みたくなってしまいますね。)事実、こうした解説は国語の授業でも比較的多く行われているような気がします。

いかがでしょう?

李徴は妻子をかえりみず、傷つけた。人間性が欠如している。だからこそ、虎になったのだ…

あなたはこの論理を認めますか? 

 

反対派の視点=本当に李徴は妻子をかえりみなかったのか?

 今回の場合、一番の問題は「妻子をかえりみていなかったのか?」ということが一番の問題になってきます。

なぜなら、「妻子をかえりみない=人間性がない=虎」という論理は一応成り立っているからですね。「成り立っているけど、認めない」としてしまえば、それは「証拠がない」といっているようなもので、全く立証できなくなってしまいますから。

どうでしょう?

李徴は妻子をかえりみていなかったのでしょうか?

「本当は、まず、このことの方を先にお願いすべきだったのだ。」

李徴はいいます。

自分の詩を、妻子よりも優先してしまう。ようやく出会った友に、一番に頼むことは妻子のことではないのか?李徴は自戒するわけです。

反省しているようで、まだ反省が足りていない…

だからこそ、自分は虎だ、ということでしょう。

でも、です。

反対派は単純な疑問を投げかけます。

「いや、頼んでいるよね。一番じゃないけど、忘れることなく、頼んでいるよね。」

最早、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等かれら※(「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48)かくりゃくにいる。固より、己の運命に就いては知るはずがない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱をあわれんで、今後とも道塗どうと飢凍きとうすることのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖おんこう、これに過ぎたるはい。
 言終って、叢中から慟哭どうこくの声が聞えた。袁もまた涙をうかべ、よろこんで李徴の意にいたいむねを答えた。

そうです。結構ちゃんと頼んでいるですね。

賛成派は、

「いや、それじゃだめなんだ。最後に思い出すのではだめなんだ。」

ときます。

この議論では、収拾がつかなくなります。

だって、この話は、どこまで家族やこどものことを考えているか、という話ですから。まったく家族を捨ててくれていれば、議論は成り立ちますが、「十分か十分でないか」を議論したら、それはその人の価値観の問題となります。この議論も、そのことを通じて、「家族を考えるというのは具体的にどういうことか」というテーマにはふさわしいかもしれませんが、時代も環境も違う中、これをつめても、国語の読み取りとしてはあまり先にすすみませんね。困りました…。

 

 李徴が虎になるまでをもういちど読む

 さて、ここで、反対派があることに気づきます。李徴が虎になるまでがどう描かれているかです。

数年の後、貧窮にえず、妻子の衣食のためについに節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、おのれの詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既にはるか高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙しがにもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才しゅんさい李徴の自尊心を如何いかきずつけたかは、想像にかたくない。彼は怏々おうおうとして楽しまず、狂悖きょうはいの性は愈々いよいよ抑えがたくなった。

あれ?

「妻子の衣食のためについに節を屈して再び東へ赴き一地方官吏の職を奉ずることとなる」

…ちゃんと妻子のために行動してます。

賛成派はそれでも、それが十分でないことを主張するのですが、少なくとも妻子のために行動したことは否定できなくなります。

「でも、やっぱり普通の人に比べれば、もともとかえりみてないし、足りないし…。」

でも、あの李徴ですよ。プライドの高い李徴ですよ。かつて鈍物として歯牙にもかけなかった連中の下命を拝するわけですよ。

だからこそ、苦しいわけじゃないですか。

その苦しみは、妻子のため…ですよね?

足りるか足りないかという議論では足りない可能性もある。

でも、そういう因果応報的な考えなら、何も妻子のためにがまんしているときに、虎にしないで、もっと妻子をかえりみずに詩人になろうとしていた時に、虎にすべきなのではないか…。

どうも、妻子をかえりみなかったことが原因とは言い切れなくなってきました。

 順番の問題をもう一度考える。

 「でも実際、詩人になりたいって思いはその後も持ち続けているわけで、だから、妻子のために下級役人になったとしても、まだ妻子より詩のことを考えているわけだよね。だからこそ、最後だって、先に詩を頼んじゃうわけで、やっぱり妻子のことを十分考えているわけではないんですよ。」

だいぶ苦しくなってきましたが、言わんとすることはわからなくはないです。

でも、これはしっかり考えてみると、論理がずれてきています。

そもそも、もう一度、この順番問題を考えてみましょう。

李徴は間違いなく、妻子のことを考えていて、先に詩のことを頼むのが問題、ということでした。

因果応報的な考え方でこのことを捉え直すなら、先に妻子のことを頼んでいたなら、許される、という展開だったということでしょうか。

だったら、ここで神様が現れて

「だからおまえは虎なのだ。先に妻子のことを頼めず、自分のことを優先する虎なのだ」とか言ってもいいかもしれません。

いや、そもそも、ちゃんと妻子のことを考えていながら、自分の夢を持つことは、悪なのか?もし、そこまで潔癖な尽くすことを求めるなら、苦しい人は世の中にたくさんいます。自分の夢、仕事、趣味…。そういう中で家族のことを考えないならいざ知らず、考えていながら、「一番ではない」と言われたら辛くないでしょうか。

「それでも、李徴の詩に対する執念は…」

そうです。どうも、この説も、これだけでは足りない。結局、「家族をかえりみない」ことではなく、「詩への執着心」「名を残すことへの執着心」こそが虎なのだといっているような気がします。

家族のことを考えていないのではなく、それ以上に、「詩へのこだわり」があるということですね。

というわけで、次回は、「詩への執着心」を考えてみたいと思います。

では。

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