国語の真似び(まねび) 国語の学習、見直しませんか? 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

文学史の頻出は古典!まずは源氏物語と枕草子を中心におさえよう! 文学史~中古

文学史についてまとめるリクエストがあったのではじめます。
入試では、特に私大文系では、1点を争うわけで(明治はボーダーラインの1点下に100人いるんです)、当然やらないわけにはいきません。
では、始めましょう!

源氏物語は大きな境目~源氏物語に影響を与えた歌物語と作り物語

源氏物語は、日本が誇る長編物語、ですね。いやいや、こんなものがあの時代にポンとできあがっているとはにわかには信じられないぐらいすごいものですね。したがって、文学史の問題は、当然、作者と作品名が問われますが、おおよそのジャンルや内容、そして源氏を中心とした成立時期まで問題になってくるわけです。

源氏物語に大きな影響を与えたのは、歌物語と作り物語

源氏物語以前の物語はほとんどないといっても過言ではないのですが、それを言い出すと、源氏物語以後もないかもしれないぐらい、すごい作品だというだけですね。
当然、物語は日本にも存在しますから、それが源氏物語につながった、と考えることができます。

作り物語

ひとつは「作り物語」と呼びますが、要は「フィクション」というか、「物語」そのものです。
有名なのは、竹取物語
そして、落窪物語と宇津保物語のふたつです。源氏より古いものの中で、タイトルだけでなく、内容まで残っている作品はほかにはほぼないのです。
この「ない」ということは思っている以上に重要なことです。
つまり、入試で出題される文章は、江戸時代をのぞけば、非常に限られた作品しかない、ということ。みなさんが教科書で知った作品以外に、もうちょっと説明するなら、今日、ここで書かなかった作品は「ない」のですから、入試に出題されようがないのです。
ということはあらすじを覚えておけば、だいたいなんとかなりますよね?
「え~。源氏をマンガで読むのはいいけど、マンガじゃないのは無理だよ」という声が聞こえてきそうですが、あんなばかみたいな長編は源氏だけ。ほかの多くの作品は短編も短編です。したがって、だいたいの筋を覚えるぐらい楽勝なんですね。

竹取物語

いわずとしれたかぐや姫の話。有名すぎて入試ではでません。

落窪物語

継子いじめの話です。継母がいじめる話。いじめられるのは美人でってだいたいそうですよね。中納言の娘が継母とその娘にいじめられる。で、ヒーローの少将が、これを助けて自分の屋敷に迎え入れて、最後は復讐をします。継母とその姫をこらしめる、っていうところからすると、シンデレラはイメージするといいかもしれません。

宇津保物語

短い話ばかりと書いた直後で申し訳ありませんが、結構な長編です。で、また、あんまりうまくない。話があっちいいたり、こっちいったり…。なので、話が点々としますが、入試にでる観点でまとめておきます。
まずは、最初の主人公、俊陰が唐に渡る途中、漂流して、仙人から琴の秘曲を授けられて帰ってくるという部分。舞台がペルシアになるんですが、「異国の地で、俊陰が秘曲を授かって最後は帰る」ということを理解しておくと楽になることが多いです。ちなみに帰ってくるまで23年。結構なドラマがありそうですよね。
次が帰ってきたあと、この秘曲は、俊陰の娘にひきつがれます。生活は貧窮して山の木のうつほで息子と暮らすので、これで宇津保物語。これで、俊陰につたえられた秘曲は、俊陰、娘、その息子と3代に引き継がれることになります。
で、ここが死ぬほど長いというか、書き足して詳しくなっていくというか、この三代目の息子があて宮(貴宮)という姫へ求婚する話。かぐや姫のパターンです。いろいろな男から、求婚されます。で、琴の秘曲を使って争うわけですね。結局は、このあて宮、東宮と結婚して宮中に入ります。ここは死ぬほど長いので、基本的に、「あて宮=ヒロイン」をとりあう話。武器は琴。ふられる。ぐらいでイメージしておけばいいと思います。
最後が、いぬ宮の話。この息子は、女の一宮という女性と結婚して、娘のいぬ宮が生まれます。秘曲はこのいぬ宮にひきつがれ、みんなに感動を与える、ぐらいでしょうか。
うつほのシーンが終われば、ふられることをのぞいて、琴によって、一族が栄えていく、という話です。

歌物語

歌物語は大和物語、伊勢物語、平中物語の3つです。
歌というのは、ラブレターですから、つまり、恋愛物語、ということ。しかも、長編ではなく、短編集。伊勢の場合、一応、主人公設定はありますが、短編間の相互のつながりはなく、一話読み切り、という感じ。入試には出しやすいですよね。
要は、歌を使った恋の物語ということ。うまくいく、いかないないなど、短編ですからその都度、変わりますが、恋愛物だとおもいつつ、ハッピーエンドかどうかを気にしながら読むのがよいですね。

源氏の時代の歴史背景

さて、こうして、源氏物語が成立するわけですが、実際の歴史を考えてみたときに、摂関政治を忘れるわけにはいきません。
摂関政治というのは、自分の娘を帝と結婚させて、男の子を生ませ、これが帝となったとき、摂政関白として政治の実権を握る、ということなのですが、言葉でわかっても、本当にわかってます?
なんで、こんなことで政治の実権が握れるのか?
おじいちゃんだから??
なんで、お父さんや、父方のお父さん、つまり、もうひとりのおじいちゃんは実験を握れないんですか?
ちゃんと考えてみましょうね。
これはすごい仕組みで、お父さんをはじめ、父方はそもそも帝の系譜なんですね。
つまり、すでに帝であった以上、今は帝でない。
死んでいるか、引退しているか。
シンプルにいうと、帝と娘を結婚させて、次期帝が誕生したら、今の帝を引退させると、頼れるのは母方だけになるわけです。父方は「以前帝だった、今は権力を手放した人たち」みたいなことです。引退させるのは出家がいいですね。大鏡の花山院の出家、みたいに、世をはかなませて、要は恋に破れさせて出家させれば、これで権力はやってきます。
そうするために、必要なものは?
自分のあととりとしての息子、だけでなく、帝が気に入る最高の女。これが重要だったんです。あっちこっちで、奥さん作って、「いい女」が出てこないとまずい。かわいい女はいいんですけど、歌、音楽、字などの教養もつけないとまずい。
というわけで、自分の娘のエースを教育していく必要が出てきます。ここで出てくるのが、家庭教師のような女房達。清少納言紫式部和泉式部などです。
まさに、彼女たちはまったく同時代に、同じ指名を持ったライバルとして、その教養としての表れの作品を作り出していきます。
さて、ここで歴史の人物名を入れていきましょう。
まず、この権力を握るのが、藤原兼家。このお父さんに権力を持たせようと息子たちが暗躍します。
長男は、道隆。兼家の権力を引き継いだ道隆は、娘、定子を一条天皇に嫁がせ、定子を中宮、つまり、帝の正妻にすることに成功します。この定子についていたのが、清少納言ですね。
道隆の弟に、道長がいます。娘は彰子。この娘についていたのが、紫式部和泉式部
さて、歴史の話です。私たちが知っている権力者の名前は、藤原道長。弟の方ですね。これは圧倒的におかしい。権力は息子に受け継がれていくのが普通とみていいでしょう。
まず、道長に権力がいく条件としては、道隆がいなくなること。実際に病気でなくなっています。
しかし、その場合、権力は伊周という道隆の息子にまわっていく可能性がたかかったはず。道隆は娘定子を、中宮にまでしているわけですから、結構強固な地盤ができています。
道長がやらかしたことはふたつ。ひとつは伊周を陥れること。彼の家臣が天皇家に弓を引いたという事件をでっちあげ(?)伊周を権力の座から追い落とします。これにより定子は後ろ盾がいなくなりますね。
そして、もうひとつは彰子を中宮にすること。もちろん、中宮はひとりですが、「中国には中宮の他に皇后がある」的なことをいって、中宮を二人にしてしまいます。となれば、後ろ見のいない定子がおちぶれるのも必然。
こんな背景の中で、源氏物語枕草子はできあがっています。
特に枕草子は、日記的ですから、こうしたことがつぶさに書かれているといっても過言ではありません。もちろん、おちぶれる側ですから、文句はかけない。だからこそ、定子との美しい思い出、というような書きぶりになります。
ちなみにですが、「殿などのおはしまさで後」とか「職の御曹司におはします頃」なんて、始まったら、おちぶれてひどい時期です。前者は「道隆様がおなくなりになって」で、後者は「中宮定子様が中宮職という中宮につかえる人が入っている詰所に住んでいらっしゃるとき」ということなので、ひどいパターン。逆に、道隆が登場しているなら、きらきらしています。

枕草子蜻蛉日記

さて、まずはここまでで、源氏物語以前か以後かわかりますよね?
父=兼家
長男=道隆
弟=道長
です。
源氏物語は成立、ちょうど1000年。諸説ありますが、国語の私たちはきりがよく、おぼえやすい1000年ですませてしまいましょう。弟、道長につかえています。
枕草子は兄、道隆につかえて清少納言。こっちのが古いですね。
父、兼家といえば、蜻蛉日記の作者、道綱母の夫。そりゃ、正妻の方が大事で、道綱母にくる暇はありません。これがその前ですね。

土佐日記更級日記

筋は次回として、先に進みます。
土佐日記といえば、紀貫之。キャッチフレーズがありまして、日本最古の日記文学。これが日記か、というつっこみはさておき、一番古いわけですから、蜻蛉日記よりも古い。で、これが古今和歌集の成立の頃でしょう。
日記といえば、もうひとつ更級日記菅原孝標女ですね。
源氏物語が読みたい」の人ですから、当然源氏物語のあと、ですね。

栄花物語大鏡

こうした政争をえがいたのが、歴史物語の栄花と大鏡ですね。これは成立は源氏の後。先にできていたなら予言者です。
しかも、齢200歳のおじいちゃんが語ったっていう体をとっているのが大鏡ですから、結構成立は後。
栄花と大鏡の成立は名前をみればどっちが先かわかります。
藤原氏の栄華を描いているから栄花。要するに権力によいしょしてるんです。
一方、大鏡は作者不詳の上に、200歳のおじいちゃんから盗み聞きした話を書いたっていう体。書いた正体がばれたくなかったんでしょう。
かくした上にばれたとしても、「いや私がいったんじゃないんです。おじいちゃんです」という言い訳ですね。
というわけで、批判的な内容もふくむのが大鏡
時間が過ぎて、危険がうすれたから、批判もしはじめられるわけです。

こんな風にただおぼえるんじゃなくて、人間関係や背景をふくめると、忘れにくいし、おもしろいですよ。次回はここに歌集を重ねて、各作品の紹介と、源氏以後を追加します。

助動詞の活用を理解する前に、時制を理解してしまおう!「助動詞の組み合わせ」 古文文法

夏休みもずいぶん進んでまいりました。

助動詞の活用に入るはずなんですが、まあ、漢文をやったり、感想文をやったりと、なかなか前に進みません。

早く助動詞は終わらせて、敬語とか読解の実践、そうそう、あとは単語もまとめる約束をしておりまして、そんなことをやってみたいんですが、なかなか、学校の先生も夏休みになったからといって、暇になるわけではなく、夏期講習から始まり、クラブ関係などなど、ふだんより休みがなくなるんですね。みんなではないかもしれませんけど。

という言い訳はおいておきまして、古文に戻ってまいりました。

今日は時制から助動詞の組み合わせについて学びましょう。

助動詞の意味をもう一度復習

ここまで、助動詞については、「接続」「意味」「活用」の三つについて整理することで、説明してきました。といいながら、まだ、活用については説明していません。とはいえ、接続と意味の整理ができてしまえば、品詞分解ができるというところまで、持ってきています。

一応、ここまでの説明です。

 

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抜粋していますので、本当は順番に全部読んでほしいところ。

で、「意味」ですが、

  1. 当たり前グループ=打ち消し・断定
  2. 現代語グループ=受身・使役
  3. 時制 

でしたね。

3の時制はさらに

  1. 過去形と未来形
  2. 進行形(存続)と完了形

でした。

過去形は「た」

未来形は「つもり」「だろう」「ような」+二人称

進行形は「ている」

完了形は「てしまう」

ですね。

もちろん、完了形は「てしまう」といいながら、「た」と訳したり「てしまった」と訳したりします。これは、現代語の日本語から、完了形が消えてしまっていることが一番の原因です。だから、英語の完了形も、○○用法みたいな形で、訳し分けないといけなくなっているわけですね。

英語で考えると…

そんな風に考えてくると、英語では、時制はこの4つだったかといわれれば、そうではなかったはずです。

現在進行形、現在完了形とやったら、

過去形を習ったあとに、

過去進行形、過去完了形をやりましたよね?

未来形を習ったあとに、

未来進行形、未来完了形をやりましたよね?

そもそも、「た」と「だろう」は組み合わせられませんが、「ている」と「てしまう」は組み合わせれば、

「ていた」「ているだろう」

「てしまった」「てしまうだろう」

という日本語ができあがります。

こうした形が当然4つある、という風に考えることができます。

ていた=進行形+過去形

ているだろう=進行形+未来形

てしまった=完了形+過去形

てしまうだろう=完了形+未来形

という感じです。

ちなみにですが、この順番は逆にできません。やってみてください。

「た」「ている」…

無理ですよね。

助動詞にはつく順番があって、この順番は入れ替えることがほとんどの場合、できません。

この間、係り結びの話をしました。 

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 「助動詞は終止形、連体形、已然形を必ず必要とする」

と説明しましたが、裏を返せば、未然形、連用形はなくてもいいということです。

逆に言えば、未然形、連用形を持つ助動詞は、下に未然形接続の助動詞「む」が来たり、連用形接続の助動詞「き・けり」が来たりする、ということなんです。

「む」「き・けり」のあとには助動詞はつきません。だから、未然形や連用形を持つ必要がない、ということでもあります。

ちなみに「けりをつける」という言葉は、「蹴飛ばして別れる」のではなくて、「助動詞の『けり』をつけたら、文が終わる」ということです。ピリオドを打つ、とか、終止符を打つ、とかと同じです。

戻ります。

ということは、完了の助動詞「つ・ぬ」と存続の助動詞「たり・り」は、未然形と連用形につくわけですが、多くの場合、それは、「き・けり」「む・べし」との組み合わせである、ということになってきます。

だったら、その形を覚えておく、というか、知っておくのはとても有効なことですよね。

というわけで、今日の解説をしています。

過去進行形

進行形=存続「たり」「り」+過去形「き」「けり」の組み合わせ

訳:ていた。

咲きたり+き=咲きたりき

咲きたし+けり=咲きたりけり

咲けり+き=咲けりき

咲けり+けり=咲けりけり

未来進行形

進行形=存続「たり」「り」+未来形「む」「べし」の組み合わせ

訳:ているだろう・ているつもりだ・ているような・ている二人称

未来の訳の詳細は、 

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 でどうぞ。

咲きたり+む=咲きたらむ

咲きたり+べし=咲きたるべし

※べし=終止形接続ですが、ラ変型「~り」の「たり」には連体形につきますね。これは、本来、uにつきたいのに、ラ変だけは変なので、終止形がiになってしまうからです。uになるのが、ラ変だけは連体形であるということ。でも、「べし」をつけて、「咲きたりべし」って変ですから、気づきますよね?

咲けり+む=咲けらむ

咲けり+べし=咲けるべし

過去完了形

完了形「つ」「ぬ」+過去形「き」「けり」

訳:てしまった。

咲きつ+き=咲きてき

※実は、「つ」は人が意志をもって完了させる、「ぬ」は自然と完了する、という違いがあります。花が咲く、日が暮れる、などは本来「ぬ」でなければまずいのですが、動詞を変えると混乱するので、ありえませんが、「咲く」で例文を作ります。

咲きつ+けり=咲きてけり

咲きぬ+き=咲きにき

咲きぬ+けり=咲きにけり

未来完了形

完了形「つ」「ぬ」+未来形「む」「べし」

訳:てしまうだろう・てしまうつもりだ・てしまうような・てしまう二人称

※きっと~だろう・つもり・ような・二人称、も可。両方覚えておきましょう。

咲きつ+む=咲きてむ

咲きつ+べし=咲きつべし

咲きぬ+む=咲きなむ

咲きぬ+べし=咲きぬべし

一応、ここで注意が必要なのは未来完了形といっていますが、この場合、「つ」「ぬ」を完了形と呼べないことになっています。下に推量系の助動詞が来た場合、完了ではなく、強意と呼ぶ決まりになっています。したがって、試験では強意と答えましょう。ただし、訳は、「~てしまう推量」「きっと~推量」の二つとも覚えていないとあてはまらないことが出てきますので、注意。

こうした用法を確述用法と呼びます。

下の推量系の助動詞は以下の通り。

む・べし・らむ・まし

したがって、それぞれ「つ」「ぬ」と組み合わせると

咲きてむ・咲きなむ

咲きつべし・咲きぬべし

咲きつらむ・咲きぬらむ

咲きてまし・咲きなまし

の8つが出来上がります。

完了形と進行形

 最後に英語ではない(?)パターンですね。

完了形は「てしまう」、進行形は「ている」だとすると組み合わせて、

「てしまっている」という日本語が存在します。

とすると、

完了形「つ」「ぬ」+進行形=存続「たり」

※「り」は「りかちゃんさみしい」で、サ変の未然と四段の已然にしかつきませんから、ここにはつくことができません。

訳:てしまっている

咲きつ+たり=咲きてたり

咲きぬ+たり=咲きにたり

 

今日は以上です。形を見て、音読して口になじませておくと、パッとみて、完了とか存続とか、すぐ気付くようになります。

品詞分解も、この話を読んでもう一度チャレンジしてみると、全部同じパターンだったことがわかります。

では。

 

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山月記5 李徴は虎になる理由なんてあるのか…「月にむかって吠える」教科書定番教材シリーズ

山月記シリーズも一応、今回が最終回。

ここまで、李徴が虎になった理由について考えてもらいながら、それを全部順番につぶしていく、という卑怯きわまりない手法を使ってすすめてまいりました。

というわけで、今回のまとめは理由がないと考えてみることで、何が見えてくるのか、です。

本文はこちら。

中島敦 山月記

 虎になる理由は「わからない」

虎になる理由なんてないんじゃないか‥

まずは、今までと同じように本文を探してみましょう。

少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。そうしておそれた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々にはわからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分はぐに死をおもうた。しかし、その時、眼の前を一匹のうさぎが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血にまみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心がかえって来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語もあやつれれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書けいしょの章句をそらんずることも出来る。その人間の心で、虎としてのおのれ残虐ざんぎゃくおこないのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、いきどおろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少してば、おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかりうもれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿のいしずえが次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人ともと認めることなく、君を裂きくろうて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何かほかのものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、かなしく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。

いきなり、長い引用をしてしまいました。必要なところだけきりたかったのですが、李徴がどーっと話している流れを考えると、切るに切れなくてとりあえず、載せてしまいました。

これが、李徴のセリフの出発点。

最初から言っています。

しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々にはわからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

もちろん、このセリフは虎になった直後を回想している体で書かれているわけですから、「現在」とは違うという突っ込みもできなくはないですが、それでも、もし、今虎となった理由が自覚できているなら、こういうどーっとひたすらしゃべる的な展開にはならないと思います。

やっぱり、「わからない」「納得いかない」「誰にもわからない」という、その気持ちがこのセリフの流れを生むんでしょうから、やっぱり、今も「わからない」というのは間違いないと思います。

じゃあ、この物語って、どういう構成?

さて、ではここからどう展開するんでしょう?

ここを1として、李徴のセリフを追っていきましょう。

  1. 「わからない」「誰にもわからない」
  2. 詩を書き残したい=詩の伝録→今の気持ちの詩
  3. わからぬ→ないこともない=尊大な羞恥心
  4. 妻子のことを頼む→自嘲

実はこの順番だったんですね。

この順番がもし、彼にとって、重要な順番であるとしたなら、(それは「妻子をかえりみなかった」という理由に当たるかもしれませんね。)こういう風に考えることができます。

  1. まず、自分が虎になったことが納得がいかない。その思いを伝える。
  2. 重要なことは、詩を残すこと。そのことに気が付き、自分の覚えていた詩を託す。
  3. 目的が達成されたところで、今までの自分の反省がはじまる。自分のふるまいを反省する。
  4. そして、最後に妻子のことをお願いする。
  5. しいていうなら、自嘲。

こうやって考えてみると、最後に「妻子のことを頼む」ということも、決して軽いわけではなく、最後に重要なことを頼みたい、というような心理としてもとらえられなくはないですよね。

そして、もうひとつ大事なこと。

これが、山月記のすべてだということです。

もし、演劇「山月記」を脚色なしに作るとするならば、セットはくさむら。

そこにいるのは、袁傪ご一行。

そして、そのくさむらの中にいる李徴がひたすら、この間、しゃべるというとんでもないものができあがります。

これが山月記という物語の構成です。

山月記のタイトルと「月」

さて、もうひとつ考えるべきものをあげておきましょう。

それはタイトル。

原作「人虎伝」が「山月記」になるわけです。

というわけで、月にまつわる部分を最初から抜き出します。

袁傪は、しかし、供廻ともまわりの多勢なのを恃み、駅吏の言葉をしりぞけて、出発した。残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎もうこくさむらの中から躍り出た。

さあ、これが最初。

二人の再会のシーンには月が描かれています。

袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。

   偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
   今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
   我為異物蓬茅下 君已乗※(「車+召」、第3水準1-92-44)気勢豪
   此夕渓山対明月 不成長嘯但成※(「口+皐」の「白」に代えて「自」、第4水準2-4-33)

 時に、残月、光ひややかに、白露は地にしげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖はっこうを嘆じた。李徴の声は再び続ける。

次はここで2か所です。

最初は詩の中です。気が付いていますか?

まさに「山月記」です。

このゆうべ、渓山明月に対して、長嘯を成さずしてただ哮を成すのみ

です。

もう一か所は別れを告げる直前になります。最初と同じ「残月」。

と成り果てた今、己はようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸をかれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎ひごとに虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己はたまらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂のいわに上り、空谷くうこくに向ってえる。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処あそこで月に向ってえた。誰かにこの苦しみが分ってもらえないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、ただおそれ、ひれ伏すばかり。山もも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、たけっているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮のれたのは、夜露のためばかりではない。

そして、ここ。

現在の時制を中心に「残月」からの問いかけをしていくと、授業によっては、ここをとばす、なんてことが起こりかねませんが、ここが重要だと私は思います。

さっきの漢詩に対応するのが、ここになります。

詩人になれない苦しみを抱えると、彼は山の頂の巌にのぼり、空谷に向かって吠えるんです。

この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。」と彼は言っています。

「己は昨夕も、彼処あそこで月に向ってえた。誰かにこの苦しみが分ってもらえないかと。」

月が出てきました。漢詩の解説ともいえる部分ですね。

かれは、月にわかってほしいとでもいうように、月に向かって吠えるんです。

「しかし、獣どもは己の声を聞いて、ただおそれ、ひれ伏すばかり。山もも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、たけっているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。

でも、月もふくめて、誰も彼のこころを理解してはくれません。

彼が人間だったころも、虎となり果てた今も、彼の心を理解してくれるものはいない。

孤独。

彼が抱えている、あるいは抱え続けている孤独。それをわかってほしくて吠える。

だから、彼は月に吠えるんですね。

でも、そのことが自分の孤独をよりはっきりさせていく。

…いえ。

誰も理解してくれない、というのは正しくありません。一人、いるはずです。この彼の苦しみを理解しているであろう人物が。

彼が今、とうとうと語っている相手、袁傪です。これがこの物語の構造でした。

 一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地をながめた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

 そして、ラストシーン。月が消えていく‥という象徴的なシーンで終わります。

この物語と月の役割

こう考えていくと、この物語の大事な構成が見えてきます。

李徴には、自分が虎になった理由はわからない。正確にいうなら、理由はあるのかもしれないが、彼には分らないし、納得がいかない。

そんなことを彼は虎になってから、ずっと、ぐるぐるぐるぐると考え続けていたはずです。

その思いを誰かに伝えたい。他人とその思いを語ることで、孤独をいやすことができるはずなのです。

でも、誰にも語れない。だから、空谷、月にむかってほえるわけですが、木も山も月も、彼の思いを受け止めない。

彼は孤独を深めている。

そんな時、奇跡のように、かつての友、袁傪に出会うわけです。

彼は、李徴の思いを受け止める。李徴も、抱えていた思いのたけを包み隠さず述べる。

彼が抱えている納得いかない思いも、

虎になるにいたる理由も、

それを考え続けていたことも、

人間でいる間に残しておきたい詩のことも、

残された家族のことも。

ひたすら、彼は語り続ける。

さながら、この過程は、彼が抱えていた孤独が浄化されていく過程のようにも私には思えます。

 

最後に月の話です。

月が消える、ということが、人間性がなくなることのように書かれることも多くありますが、時間経過以外で意味を持たせるとするなら、

彼が、彼の思いをぶつける対象が消えていく、というむしろ、相手としてみた方がいいのではないか、と私は思います。

極端なことを言えば、彼が彼の中で抱えている思いが消えていくことが重要であり、袁傪である必要さえないのかもしれません。もちろん、袁傪以外にそんな人物は存在しないんですけどね。

まさに月が袁傪、あるいは袁傪に思いを語るチャンス、というようにとらえることが大事なのではないかと。

もちろん、こういう象徴的な表現は、どう読むこともできるし、基本的には、虎が山の頂上の岩にのり、月に向かって吠えるイメージでしかないわけですが、そこに私たちはさまざまな意味を加えます。

月を李徴の孤独そのもの、思いそのものとみることもできるでしょう。李徴の思いは、消えていく、浄化されていく、なんていうイメージも悪くない。残月なんていう表現も、思いが残っている感じと合わなくもないですし。

 

というわけで山月記でした。虎になった理由はわかりません。わからないから、やっぱり「臆病な自尊心だよ」という読みが間違っていることもないし、そういう風に考えることがいけないわけでもありません。

ただ、やっぱり重要なことは、今日の部分。李徴が抱えていた「理解されたいのに、誰にも理解されない」という思いは、読み取ってあげないといけないんじゃないかな、と思うんですね。

 

というわけで、山月記でした。

漢文の学習方法3 「句法」を覚えるにはコツがあります。句法別の理解の仕方 「否定」下を否定する。

漢文の学習方法の説明を進めていきたいと思います。横書きと、返り点がどうしても横書きのブログに向きませんが、まあ、なんとか書かないよりはマシだぐらいのつもりで進めていきたいと思います。 

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 漢文のポイントは

  1. 構文
  2. 句法
  3. 漢字A覚える
  4. 漢字B日常

で、これにプラスして読解ですね。

漢文の場合、読解要素が非常に弱く、覚えることが多いので、短期間で成果をあげることが可能です。

塾や予備校では「句法」が大事と言いますが、もちろん句法を覚えていないようでは話にならないことは間違いないですが、答えを決めるというレベルで言うと、はるかに漢字の読みの問題と構文の理解の方が多くなります。

だから、そこまで説明したいところ。

というわけで、次に説明したのが、構文ですね。

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そして、これから句法の説明です。

句法の覚え方にはコツがある。

それでは、句法の学習に入っていきましょう。

句法を覚える前提は、

漢字だけの状態からすべてを言えるようにする

ということです。

「すべて」というのは

  1. 返り点がつけられる。
  2. 送り仮名がつけられる。
  3. 漢字が読める。
  4. 意味が言える。

ということ。

私が見ている限り、多くの参考書は、

返り点や振り仮名、送り仮名がある状態で、上に書いてあり、下に意味と書き下し文が書いてあるような形式になっています。

こうすると無意識に、

「送り仮名や振り仮名、返り点がある状態」

から、

「書き下し文にできる。」

そして、

「書き下し文の意味がわかる。」

ということが、句法の学習になってしまうケースがあるのです。普通は(と書くと怒られそうですが)模試をうけていくうちに、それでは点が取れないことに気が付くはずなのですが、場合によっては「やってもできない」「やってるのにできない」というように感じることもあるようです。

そして、これらの句法を覚えるにはコツがあります。たとえば、うちの学校で使っている参考書には、120の句法がまとめられているのですが、これをできるだけ、少ないイメージで押さえていきたいわけです。

そのためには、句法を整理して、できるだけシンプルにすることが必要です。

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そのうえで、その句法ごとに、覚える際に障害になっている部分を考えていくことが大事です。

というわけで、一言でまとめると、

「句法ごとに覚えるコツがある」

ということになります。というわけで、今日は、まず否定形です。

否定形は構造で覚える。「不・無・非」

否定形は、基本的に下を打ち消します。

不=助動詞に当たりますが、動詞の前に来ます。

無=返読文字で、下が主語。やはり戻ります。

非=あらず、ですから動詞。やはり、下に目的語が来ます。

というわけで、この3つの否定の字は「下を打ち消す」わけですね。

まずはこの理屈を叩き込みます。

そして、

整理すると、

不の後は、動詞=V

無の後は、名詞=n

非の後は、名詞=n

であることがわかりますね。

もちろん、名詞と書いていますが、動詞がくることもあるわけです。その場合、動詞は連体形となると考えればいいですね。

不=不咲 咲かず

無=無花 花無し 無咲 咲く無し

非=非花 花に非ず 非咲 咲くに非ず

ということです。

ここで、覚え方の注意。

無=~は無し

非=~に非(あら)ず

と、それぞれに「は」「に」を補って覚えておきましょう。

特に、「無」については、たとえば「無咲」は

咲く無し

でも

咲くこと無し

でも

咲くもの無し

でも

咲くは無し

でもいいのですが、要は「咲く」が連体形として、「咲くこと」「咲くもの」という意味になっていることは間違いないんですね。

それをさっと理解するために、いったん「~は無し」と頭に入れましょう。

これで、実は否定形はほぼ終わりです。

二重否定はこれで読める。

二重否定形はなんて読むか、混乱することが多いですよね。で、3つの否定辞がありますから、組み合わせがたくさん。なおかつ、「不〇不~」という可能性もあったりして、面倒になるわけです。ちょっとまとめてみます。

無不咲

無非咲

非不咲

非無咲

とりあえず、こんな感じ。

ここで使うのは、

否定形は下を打ち消す

「~は無し」「~に非ず」

のふたつ。

無不咲

で考えてみましょう。

最初は「無」。これは「~は無し」ですね。

無(不咲) というように見ると、(  )は無し です。

(  )の中は「咲かず」。つまり、(咲かず)は無し。

「~は無し」ですから、最後は名詞=連体形。だから、「咲かずは無し」はちょっと変。というわけで、「咲かざるは無し」です。

どうですか?

無非咲

同じように行きますよ。(非咲)は無し です。

(咲くに非ず)は無し。

咲くに非ざるは無し。

意外と簡単でしょう。「は」はなくてもいいし、「もの」「こと」でもいいんですけど、これをやるには「は」をつけておくとやりやすいんです。

非不咲

(不咲)に非ず。

(咲かず)に非ず。

咲かざるに非ず。

最後です。

非無咲

(無咲)に非ず。

(咲くは無し)に非ず。

ここだけ、パターンが変わりました。「~ず」ではなくて、「なし」と形容詞になったからです。連体形ですね。

咲くは無きに非ず。

です。

単純に覚えるのではなくて、考えてふっていくだけでだいぶ簡単になると思いませんか?

最後に、

不不咲

不無咲 

のパターンです。実際は「未嘗不咲」だったり、「不必不咲」だったり、間に何か入るパターンなんですが、「原理として」ということで覚えてください。

不(不咲)ですよね?

そうすると(咲かず)ず、ということになるわけです。

これはちょっと変。なので、(咲かず)のあとの「ず」に動詞をつけたい。というわけで、

(咲かず)あらず。

というように、動詞を補ってしまうんです。

とすると、動詞がふたつ、つまり文がふたつになるので、つなぎたくなる。

というわけで

(咲かずんば)あらず

という感じになります。

ちなみにですが、送り仮名を入れると

不不(んばあら)咲(か)

となりますね。

というわけで、

「ズンバ・クンバ」と5回ぐらい繰り返してみましょう。なんかダンスみたいですね。「ズンバ・クンバ・ズンバ・クンバ…」

はい。では、次。

不無咲

不(無咲)

というわけで、

(咲くは無し)ず。

(咲くは無し)あらず。

咲くは無くんばあらず。

です。

部分否定と全部否定

ではつづいて、部分否定と全部否定です。

必不歌

不必歌

意味が違うんですよ。

読むと、

必不(レ)歌 なので 必歌不

不(二)必歌(一) なので 必歌不

で、同じになりますが、意味は異なります。

否定は下を打ち消すんですから、

必(不歌)

不(必歌)

の違いです。

上は、(歌わない)ことが必ず、です。

下は、(必ず歌う)、いやそんなことはない、です。

つまり、上が「毎回毎回必ず」「歌わない」人。下は、「必ず歌う」。そんなわけないじゃん、「毎回必ず歌う」なんてことは「ない」人。

わかりましたか?

じゃあ、もう一回。

常不歌

不常歌

上は(歌わない)が常ですね。

下は、(常に歌う)?そんなことないよ。

ですね。

不必歌 は 必ずしも歌はず

不常歌 は 常には歌はず

とやっておくといいわけです。最初の話に戻りますが、送り仮名があれば意味がわかるのは当たり前。消された状態で、送れないといけないわけです。

最後。これができれば完璧です。

復不歌

不復歌

やることは一緒ですよ。

「復」は「また」と読みます。

上は、(歌わないこと)が「また」ですね。まただよ。あいつまた(歌わない)よ。

下は、(また歌う)ことがないんですね。(また歌う)ってどういうことですか?そうですね。歌うことをまたやるんですね。それが違うと。

上は、歌わないことを繰り返した。一回目も歌わず、二回目も歌わない。だから、「また歌わない」

下は、「また歌う?そんなことしないよ。または歌わないよ」です。一回目は歌いました。でも、もう一回は歌わない。つまり、「復たとは歌はず。」です。これを「二度と歌わない」と言います。二度と歌わない人は一度歌ってますよ。一回も歌ってないのに、二度と歌わないっておかしいでしょ?私があなたの顔をみたことないのに、「二度と会わない」っていえないですよね?

とりあえずこんなところです。

否定形はまだいくつか覚えるパターンがありますが、一回目はここで切ります。

 

山月記4 李徴はなぜ虎になったか?「詩への執着心」教科書定番教材シリーズ

山月記シリーズも四回目です。

本文はこちら。

中島敦 山月記

李徴が虎になった理由を考えてみることすでに2回。
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まずは、臆病な自尊心を考えました。欠点としては理解できるものの、「どうして虎?」というあたりで大きな疑問が生じてきます。
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 というわけで、2回目は、妻子をかえりみないことを検証しました。虎のイメージにより近くなりますから。

でも、妻子を顧みなかった、というのは嘘で、ある程度妻子のことを考えて行動していたことがわかりました。これだと、「不十分」か「順番」の問題になってしまいます。

となると、最後の「虎」イメージ。つまり、なんとしてでも、詩人として大成したい、というその執着心を、虎になる理由として考えてみます。

詩への執着心

他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百ぺんもとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早もはや判らなくなっていよう。ところで、その中、今もなお記誦きしょうせるものが数十ある。これを我がために伝録していただきたいのだ。何も、これにって一人前の詩人づらをしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

さあ、これが「詩への執着心」の根拠の部分ですね。

産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

とあるわけで、これを読む限り、李徴が心を狂わせたのは、「詩への執着心」だということになるわけです。

冒頭はこんな感じでした。

年の後、公用で旅に出、汝水じょすいのほとりに宿った時、遂に発狂した。ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、やみの中へ駈出かけだした。彼は二度ともどって来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、だれもなかった。

周りから見れば、李徴は虎になるのではなく、「発狂」している。そして、そのことを李徴は、「詩への執着心」と説明している。

「臆病な自尊心」では虎の雰囲気がない。

「家族をかえりみない」といっているけど、家族のことは考えている。

だとすれば、「詩」にこだわり、何がなんでも詩人になりたい…という「虎」の雰囲気をここに足すことはとても重要な視点です。

本当にそれが虎になる理由か?

さて、です。

反論はないでしょうか?

何か目標に向けて、何もかもを捨てて、そこにこだわっていく‥。虎の雰囲気はだいぶ出ています。

何もかもを捨てて、受験に向かう。

何もかもを捨てて、野球にかける。

うん。雰囲気は悪くありません。

いよいよ、いけそうな雰囲気になってきました。

でも、です。

反対派は見つけてしまいます。

たとえば、ですね。

今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふとを覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。何か身体からだ中に力がち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先やひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。

これが、李徴本人の説明。

これで冒頭の説明は嘘だと判明しました。周りの人からすれば、「発狂」していなくなったと思っていますが、李徴は狂ってなどいません。だから、これは単純に突然虎になった、ということですね。 

 もちろん、これは李徴そのものの分析を否定したことにはなりません。

ではもう一度引用。

産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

しかし、冒頭の「発狂」が消えてしまえば、よく読めば、「生涯それに執着した」ことは間違いないけれど、虎になった、と分析しているわけではないともいえます。

そもそも、冒頭の「発狂」にしたところで、この前を読めば

一方、これは、おのれの詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既にはるか高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙しがにもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才しゅんさい李徴の自尊心を如何いかきずつけたかは、想像にかたくない。彼は怏々おうおうとして楽しまず、狂悖きょうはいの性は愈々いよいよ抑えがたくなった。

「詩への執着心」は「家族」のために、あきらめていると読めるわけです。そして、これはむしろプライドゆえに傷ついていく‥

とすると、「詩への執着心」とは言っておりますが、たいしたことはないとも言えなくはないですよね?

「詩への執着心」は「家族」に負ける。

もちろん、だからこそ、詩への思いが強くなるんだという考え方もできなくはないです。

でも、それって、厳しくないですか?

本当はバンドやりたいけど、才能もないし、生活も苦しいから、まっとうに就職する。そしたら、そのあきらめない思いが虎だ‥

まあ、ここまではいいにしても、だから、虎になったら、世の中虎だらけ。

あきらめずに、ずっと夢にこだわっているから虎だ、と言われれば、家族も顧みないし、虎だよね、って感じになりますが、あきらめたのに、心のそこではあきらめてないよね、って言われたら、ぼくらは苦しいですよね。

合わせて一本はどうでしょう?

いや、これは困りました。最初に想定した、3つの理由はついにすべて、否定されてしまいました。

じゃあ、「合わせて一本!」というのはどうでしょう?

ひとつずつは、足りないけど、3つそろったから…という考え方です。

「詩への執着心」は、ちょっと足りなかったけど、「妻子をかえりみなかった」から、足せばどう?って考えるわけです。

いやいや。そんな単純な話ではありません。

だって、「詩への執着心」が強ければ、家族をかえりみていないはず。

家族のことを考えたからこそ、詩への執着心は弱いともいえます。

だから、両方が理由としては弱くなります。

だからこそ、そこは「自尊心」の問題に戻ってくるんですね。そうなったときに、問題になるのは自尊心=プライドです。

でも、この自尊心は、家族のために「節を屈して下吏に甘んずる」ことが耐えられない自尊心であり、だとすると、それがあるのはいけないというのはちょっと厳しい。

だからこそ、もっと戻ると、「臆病な自尊心」、傷つきたくないけど、プライドはあるぜ、ということがいけなくなってきます。

でも、これは、虎になる理由としては‥

…ぐるぐるぐるぐる回っているんですね。

当然、具体的な行動として「人と交わりを絶った」ことをあげることもできます。これを中心にして、

「臆病な自尊心」

「妻子をかえりみない」

「詩への執着心」

という3つがとりかこんで、理由としてぐるぐる回るんです。

気が付いたと思いますが、これが李徴の性格ですよね。だから、この3つは、そもそも表裏一体というか、同じことを、見る角度を変えて説明しているにすぎないんです。

 

…理由がなくなりました。

ここで、本文をきちんと読んでいた人ははたと気づきます。

「理由なんてあるのか?」

この授業は実はひどい授業だったのです。

「虎になった理由は何?」

私は聞きました。

そうです。考えてみて、わかりました。

「もしかして、虎になった理由なんてないんじゃないの?」

それが私の気づいてほしかったことです。

というわけで、次の授業では、

「理由がないとしたら…」と考えてみたいと思います。

 

漢文の学習方法2 「構文」句法だけでは漢文はできるようになりません!

漢文の第一回は比較的シンプルに説明しました。 

が、思ったより、スターがぱぱぱとついてもしかしたら、漢文の学習方法にニーズがあるのか…なんてことを思いつつ、第二回目も書き進めます。

まあ、受験のためのページですから、大人たちにとってはあまり関係のないページかもしれませんが、書きたまって参考書のようになったらいいなあ、というのが、今のところの目標です。

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漢文の学習ポイント

前回のところを読んでいただければわかりますが、漢文の学習には、次の観点で理解することが大事です。

前回のものをコピーします。(できれば全部読んでくださいね。)

構文

要はSVOの語順ということ。これだけで選択肢がしぼれたりします。最近のセンターは全部ちゃんとしてたりしますが、それでも知っている必要があります。助動詞にあたる助字や置字なども、役割をわかっていることが実は大事。

句法

よくどの参考書でもどのブログでもやれといわれるものですね。

漢字だけの状態から

1 返り点

2 送り仮名

3 意味

まで言えるようにすればOK。句法ごとに覚え方にコツがあります。

漢字1 覚える

思っている以上にテストで問われやすく、また、本文に句法よりも出現するのが覚えてほしい漢字の読み。

リストを手に入れて覚えましょう。同訓異字とか、和漢異義語までちゃんとやりたいところ。

漢字2 日常生活

こればかりは言語感覚を働かせる練習をするしかない部分。漢文でいうなら、注がついているときに、「この漢字がこういう意味なのか」と考えたりすると練習になります。満点とりたいなら、ここまでやらないとね。

そして、読解

もちろん、読解も必要です。

特に最後の漢字2日常生活、なんてのは、読めば読むほどふくらみます。

 というわけで、今回は構文の話です。

で、一応ことわっておきたいと思います。私は国語の教員なので、大学で中国文学を学習はしています。でも、何を血迷ったか、第二外国語に中国語を選択しませんでした。だから、ある意味では、大学での中国文学も、日本文学として中国文学を勉強したようなものです。

何が言いたいかというと、これから偉そうに説明していきますが、中国語をまったく理解していないで説明しているということ。

本当は、中国語を理解して、中国文学をきちんとわかる先生に教えてもらうのがいいのかもしれませんが、国語の授業では必ずしも中国語をやっているわけではないし、中国語の知識を学ぶことが受験でマストか、と言われれば、必ずしもそうではないと思うので、書いてしまいます。

だから、専門的な説明がほしかったら、塾や学校で、中国語を知っている先生に聞きにいくことをおすすめします。

でも、とりあえず、受験を突破しようぐらいなら、たぶん私程度の説明でもあまり問題ないと思います。

構文 基本は英語と一緒。だから、返り点が必要になる。

中国語は基本的に英語と同じ「SVO」の語順です。そうすると、日本語の語順と異なります。

もともと、日本人は中国から字を借ります。言葉を借りるわけではありません。日本語を、中国の文字で書き表そうとするわけですね。

最初の発想は音を借りる。昭和のわたしたちでいうと「よろしく」を「夜露死苦」と書く昔懐かしい暴走族のようなものです。

ただ、これ、面倒くさい。なので、省略するパターンとして「本当の字」「真名」という漢字に対して、「仮の字」であるところの「仮名」が生まれますが、全部ひらがなで書けば、これもまた面倒ください。

もう一方の発想は、中国の言葉で書いたものを、そのまま、日本語として読んじゃおう、というものでした。

だから、漢字一字を日本語として読むわけで、その際、仮名なんてないですから、助詞とかも読むときには適当に補って読むような発想になるわけです。

そうすると、中国人が

「読書」

と書いても、

私たちは、

「よむ」と「しょ」になるわけで、そうなれば「しょをよむ」と戻る必要が生じてくるわけです。

英語 I read a book.

中国語? 我 読 書

日本語直訳 私 読む 本

正しい日本語 私は 本を 読む ※順番が入れ替わる

したがって、返り点が必要になります。

大丈夫ですか?

英語 I want to read a book.

中国語 我 欲 読 書

日本語直訳 私 欲する 読む 本

正しい日本語 私は 本を 読み たい

大丈夫ですか?

じゃあ次に行きます。

英語 I don't read a book.

中国語 我 不 読 書

日本語直訳 私 ない 読む 本

正しい日本語 私は 本を 読ま ない 

です。

要するに

  1. 日本語はあったけど、日本の文字はない。
  2. だったら、中国語で書いちゃえ。
  3. でも、読む時は日本語だよ。
  4. 仮名は正式なものではないし、漢字と仮名の整理はついていないから、漢字に仮名をおくるっていう発想はないよ。

というようなことで、漢字だけ、それも中国語のように書いていく、という感じでしょうか。

返り点がつくのは…

というわけで、返り点がつくのは、英語との語順の違いを考えるとほとんどわかります。

動詞

まずは動詞は先に来ますから、たいてい返り点が必要になります。

助動詞にあたるもの

漢文では助字という言葉を使うのですが、いわゆる助動詞のような役割を果たすもの、

不・可・能や再読文字など

は、動詞の前に来ますから、返る=戻る 必要があります。

前置詞にあたるもの

前置詞といっていいのかわかりませんが、そういう言葉は名詞の前に来ます。

たとえば、

from school

中国語 自 学校 自=より

日本語 から 学校

のような感じになりますね。これも読む時に戻ります。

こうした語は、たとえば、置き字なんていうことにもつながります。

at school

中国語 於 学校

となるわけですが、「於」は読まないで、学校の後に送り仮名としてつけてしまうなんていう手も使います。

与 は「と・ともに」などと読むように、and や with に近い役割を果たしています。

だから、太郎 与 花子 となると、意味としては「太郎と花子」なんですが、

漢文として読む時は

TARO with HANAKO のイメージにして読む必要がありますから、

太郎 与(二)花子(一)

太郎と花子と(与)

と読むわけですね。

こうした文字はいわゆる「返読文字」として、参考書にまとめられているわけですが、大きくわけるとこの3つだと理解しておくといいですね。

そのほか、といっていいのかどうかは私には正確にはわかりませんが、

「所」などは、大体下に動詞が来て戻る感じになります。 

返り点のつけ方

返り点をうつ場合は、次の法則でやると間違いが減ります。

  1. 日本語としての文章を決める=書き下し文が示されているならそれを使う。意味しか与えられていないなら、書き下し文のイメージを作る。
  2. 漢字を読む時は、何もつけない。そのまま。
  3. 読まない時は、返り点をうつところ=左下に○をつけておく。
  4. 読む順番に返り点を打ちながら上に戻る。
  5. 一字戻る時はレ点
  6. とぶ時は、一・二点。
  7. 一・二点をとびこえる時は、上・中・下点
  8. それを越える時は、甲・乙・丙

これだけです。○を打っておいて、下から順番に打っていけば間違いません。注意点は、一字の時はレ点なので、下から、「一・二・三」と戻りたくても、「二」から一字しか戻らない時は「三」ではなく、「レ」を使う、ということです。

やってみましょう。

我 為 人 所 怒

受身構文ですね。

我 人の 怒る 所と 為る

と読むとわかります。

我 は読むので何もつかない。

為 は読まないので、とりあえず○。何かがつきます。

人 は読むので何もつかない。

所 は読まないので、○。

怒 は読みますが、所に戻りたい。一字ですから所がレ。

所から為に戻りたいのですが、とんでいるので、一・二

所に一、為に二 です。

結果として 所は 一レになりましたよね?

こんな感じ。

じゃあ、これはどうでしょう?

先生 使 人 買 弁当 食 飯

先生 人をして 弁当を買い 飯を 食はしむ

使役構文です。またあとで説明しますが、「弁当を買い、食はしむ」と読んでいますが、意味としては「弁当を買うこと、飯を食うこと、の両方をさせている」となります。

さあいきましょう。

先生 読むのでつかない。そのまま。

使 よまないので、○。保留です。

人 読むのでつかない。

買 読まないので、○。

弁当 買うに戻りたいですから、ここに一、さっきの買うは二です。

食 読まないので○

飯 食うに戻るのでレ。

そして食うから、使に戻りたい。とんでいるのから、一・二といきたいところですが、一・二点を飛び越えるので、上・下とうちます。

先生 使(下) 人 買(二)弁当(一)食(上レ)飯。

です。

SVOを意識する。

枝 折 。

さあ、何て読みますか?

「枝を折る」

読みたくなりますよね?でもだめです。

「枝を折る」なら

折(レ)枝 。

のはずです。

動詞が枝だとするなら、上に来る可能性は二つ。

  1. 主語。つまり、「枝が」と読む。
  2. 修飾語。動詞にかかる修飾語なら上に来ます。

この場合、修飾語ととるのは苦しいですから、やっぱり主語?

となると、動詞の読み方を変えるというのが無難です。

枝 折らる。

というように受身で読む、なんていうことが漢文ではおこるんです。どうして、受身にできるの?というのは、中国語を勉強していない私には、答えられません。ごめんなさい。でも、そんなことが起こるのが漢文です。突然使役でとるというのも、当然関連する語があるとはいえ、そういう風に読むと通じる、というのが日本人の感覚だと思います。

有無多少難易は下が主語

この例外にあたるのが

「有・無・多・少・難・易」の6文字。

ぶつぶつと唱えて今、覚えましょう!

この6文字は下が主語。

無人

は「人がいない」修飾語は上で、「島」。

司会者なら

「会を司る」「人」。

この構文を覚えておこう!「先生有怒買」

さあ、この文の意味は?

考えてみてください。

まず、「有」が動詞だと気づきます

有は下が主語ですよね?

だから選択肢に

「先生がいる」となっているものがあれば、それは×です。下が主語ですから。

では主語は何かといえば、

(怒買)ということがある、あるいは、(怒買)という人がいる

ということになります。

次に

怒 買

です。これは動詞を並列とみたり、いくつかの可能性が考えられるのですが、すくなくとも、選択肢に次のものがあれば×です。

怒りを買う。

なぜなら、「怒りを買う」なら「買(レ)怒」という語順でなければいけません。

もし、VOという語順とみるなら、

「買うことを怒る」です。それがある。

買うことを怒ることがある。

買うことを怒る人がいる。

となると、先生は何か、ですね。

動詞の上にあるのは、主語でなければ、修飾語だと考えましょう。

先生に

と読めばつながります。有の上は、「~に」とふることがほとんど。

というわけで、

先生に買ふを怒る有り。

です。

先生の中に買うことを怒るやつがいる。

買い食いするな!という感じ。

センターの選択肢を選ぶときに、本文の内容とか展開とか前後関係で選ぶだけでなく、そのものの語順を見て、あり得ない、ということを知っていてください。

ただ、残念なお知らせもありまして、昔のセンターは結構これで答えが決められているんですが、最近のセンターは、ほとんどの選択肢があり得るな、こうも読めるなという選択肢ばかりになってしまっています。

でも、ひとつでも選択肢が減ればありがたいですよね?

というわけで、構文の話でした。

では。

次回からは句法の説明をしていきます。

疑問文の作り方って知ってます?係り結びのとっても大事なこと 動詞の活用 古文文法

古典文法シリーズは、

  1. 文法と読解の話
  2. 品詞分解の話
  3. 動詞1 古語と現代語の違い
  4. 動詞2 動詞の活用
  5. (文章読解の方法1)
  6. 形容詞の活用
  7. 助動詞の概説
  8. 助動詞の接続
  9. 助動詞の意味1
  10. 助動詞の意味2 未来形
  11. 品詞分解の実践

と続いております。きちんと読んでくださった方はわかると思いますが、まだ助動詞の活用について、説明しておりません。

でもその前に、説明したいのが、今日の話です。

ポイントは疑問文の作り方、です。

前回の話だけでも読んでもらえると、話がわかりやすいかも。
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では今日の話に行きましょう。

古文を本当に「英語のように学習している」のか?

 古文を、「英語のように学習する」という説明はよく聞きます。だから、文法や単語が必要だ、というような感じでしょうか。

否定するつもりはないのですが、そう言っている割には、非常に日本語的な文法の教科書を作っている気がします。

そもそも…というかなり文句になってしまいますが、今、みなさんが使っている文法の参考書は、昔「なんとなく文語文(古文)がわかるけれど、正確な説明を必要とする人」向けの参考書だと思います。決して、一から古文を学習するための参考書になっていません。

第一に「古語動詞と現代語動詞の違い」についての言及がない。

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 第二に、なぜ「動詞の活用」を覚える必要があるかの説明がない。

 

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などなど。

言いたいことは、ある程度文語がわかる人、たとえば、「夏は来ぬ」「うさぎ追ひしかの山」「あした浜辺をさまよへば」「今こそ別れめ」などが、意味が分かっているけど、説明できない人のための教科書であるということです。

昭和の時代であればおおよそこのあたりはわかっていたことでしょう。私たちでさえ、「夏が来ない」とか「うさぎがおいしいあの山」とかは思いませんでした。でも、「明日浜辺をさまよったら」とか「今こそが別れ目」ぐらいに思ってた人はいるような気がします。

(正解は「朝はまべを散歩すると」「さあ今別れよう」ですね。)

ともかく学ぶ生徒の質が変わっているのに、文法の教科書の構成や説明はほとんど変わっていないのは大問題です。

参考書を作っている会社にも主張はしているのですが、「そういう教科書でないと国語の先生は採用してくれない」と言われてしまいます。

国語の先生は、自分が教わった教科書を使って、自分が教わった説明で教えていきたいのかもしれません。だから、「か・き・く・く・け・け」みたいなことが起こるわけです。いまだに。

なんていうことばかり書いているといろいろな人を敵にまわしてしまうことになりますので、ほどほどにしましょう。誰が正しいか、どの方法が正しいか、なんていうことはあまり関係のないことです。

わかりやすい説明をして、それで古文がわかってもらえればいいのですから。 

疑問文と否定文は必ず必要!

 話を戻します。

古文を英語のように学習するとするなら、真っ先にうかぶのは、疑問文と否定文です。今の英語の教え方はよくわかりませんが、当時は、

I am a boy.

とくれば、

Are you a girl?

ときて、

You are not a girl.

なんてくるわけです。すごい例文です。昔はこういう例文で勉強したんですよ。本当に。

で、それが一般動詞になれば、

I study English.

Do you study English?

I don’t study English.

となるわけで、三人称になれば、また疑問文、否定文。現在進行形をやれば、また疑問文、否定文。過去形をやれば、また疑問文、否定文…。

でしたよね?

そう考えてみると、古文の疑問文の作り方って知ってます?

否定文は意外と日本語の感覚がいきます。

だって、「ず」ですから。

花咲く→咲かず。

花咲きき→花咲かざりき。

花咲かむ→花咲かざらむ。

なんとなく意味がとれるし、違和感ないですよね。

でも、疑問文です。どうですか?あらためて言われると困りません?

現代語では、最後に「か」をつけるか、そのまま語尾を上げるか、ですよね。古文はどうでしょうか? 

疑問文は「や」「か」で作る。

 古文の疑問文を作るためには係助詞の「や」「か」を使います。

見たことはあるし、言われてみれば、「ああ」という感じです。こいつは「係り結び」で習ったやつです。

「係り結び」で、結びばっかり教えるからこんなことになるんです。また、文句を書いてしまいました。やめましょう。

大事なことは「や」「か」が疑問文を作るということです。「か」については後で説明しますが現代語の感覚にだいぶ近くなります。

問題は「や」です。

「や」「か」とも言えることなのですが、後々これらは文末につくようになっていきますが、初期段階は、文の途中に入ってきたんですね。

花咲く。→花や咲く。

という感じ。「咲く」は同じに見えますが、連体形ですね。係り結びですから。

水流る。→水や流るる。

二段動詞だと、形が変わってみえるわけです。終止形と連体形が違いますからね。

疑問文は原則としてこんな風に作ります。もちろん、文末につくパターンもありますよ。

「か」は「や」の代わりに使っていいかというとそうはいきません。

原則は、「や」が下の言葉がわからないとき、「か」は上の言葉がわからないとき、です。

花や咲く。

の場合、「咲く」がわからない、つまり「咲いてますか、咲いてませんか」という時に、「や」を使うわけです。

「か」を使えば、「花か花でないか」がわからない、ということになるんですが、ほとんどは5W1Hというやつに使われます。

「誰か」「何か」「などか」「いかでか」「いづくにか」「いづれの御時にか」

という感じ。

これで、疑問文はマスターできたと思います。

実はこの作業は思っている以上に大事です。

なぜかというと、疑問文は反語になるからですね。

雨や降る。

疑問文だと気づいていない場合、「雨が降る。」

疑問文だとわかっている場合、「雨が降るか?」または「雨が降るか、いや降らない。」です。

つまり、意味が反対になっているわけです。結構重要だって気づいてもらえましたか?

 助動詞を使ったら、疑問文も必ずつくる。

 さて、これをもとにして、英語の例にならいましょう。たとえば、過去形を習ったとします。

花咲く。→花咲きき。

ですね。 

manebikokugo.hatenadiary.com

 だめな人は復習をお願いします。助動詞の活用はこれを踏まえて次回説明します。

そうすると、「花咲きき。」を疑問文にしておきたいわけです。

花咲きき。→花や咲きし。

です。

未来形です。

花咲く。→花咲かむ。花咲くべし。

花咲かむ。→花や咲かむ。

花咲くべし。→花や咲くべき。

という感じ。

過去形、未来形、進行形、完了形と私は整理しました。そうすると、英語だったら、それぞれを疑問文にします。だから、そういう作業をしたいんです。そうすると、終止形と連体形を使う形で頭に入れることになります。

過去完了形、未来完了形、過去進行形、未来進行形も同じですね。一度やりきるだけでもだいぶ古文に慣れるはずです。

 強調文の訳は「そのまま」。平叙文に戻す。

 さて、そうなってくると、「係り結びの残りの意味も知りたい!」っていう感じになりませんか?

「ぞ・なむ・こそ」ですね。

これらは「強調」です。じゃあ、強調の訳は?

ちゃんとここまでやらないと困ります。

強調の訳は「そのまま」。

「花が咲く」を強めても、やっぱり「花が、咲く。」ぐらいのことです。もちろん「こそ」をつけて「花こそが咲く」とか「まさに花が咲く」とかそういうことですが、要は「そのまま」です。

なぜ、これをこだわっているかというと、「こそ」は已然形で結ぶからです。

花咲く。→花こそ咲け。

きちんと訳せますか?

正解は「花が咲く。」つまり、そのままです。むしろ戻すということです。

センターや私立大で死ぬほどでてますよ。

不正解例1 花よ、咲いておくれ。

不正解例2 花に咲いてほしい。=花が咲くとよい。

不正解例3 花よ、咲いてください(花だとわかりにくいですが、人の行動だとこの文末はよく使われています)

全部、已然形を命令形のようにとっていることが特徴です。基本は助動詞がないわけですから、訳のわからない文末表現はあっちゃだめなわけです。

「こそ」は文末を戻して、平叙文にする。

覚えておいてください。

 係り結びがあるから、連体形と已然形は必ず必要。

 というわけで、

「や」「か」を使って疑問文→連体形

「こそ」を使って強調文→已然形

という練習によって、終止形、連体形、已然形をマスターすることができます。そして、これはすべての助動詞が「終止形・連体形・已然形」の3つを持つということがわかるわけですね。

裏側からみると、「未然形・連用形・命令形」はなかったとしても問題がない助動詞がある、ということになるのです。

 

というわけで今回はここまで。

 

では。